コリント第二4章
4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。
神の契約に基づく愛によってこの務めが与えられているので、落胆しません。信仰によって仕えるならば、主は、喜んで徹底的に契約を果たされます。彼を通してその業を神の業として実現されるのです。それで、落胆しないのです。信仰に応えて、契約を果たされるからです。
・「あわれみ」→神の契約に対する忠誠。
4:2 かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
そのような神の業が徹底的に実現されるために、自分自身を捧げました。恥ずべき隠し事を断固捨てました。利己的なずる賢い歩みをせず、神の言葉を曲げません。真理を明らかにしたのです。曲がった言葉に対して、真理という語を使いしまた。彼の証しは、人に受け入れられる必要がありました。人の持つ行動や判断の基準としての良心、特にここでは言葉の真実性の判断や道徳的判断の基準としての良心に受け入れられる必要があるのです。その良心に自分自身を推薦しました。
神の言葉を証しする者は、このことを実践すべきです。語る言葉は、正しくなくてはなりません。しかし、そのように考えていても、聖書の理解が足りないことや、書かれていないことに推測を入れたり、自分の主張を主眼において聖書を利用することなどして、聖書の言葉を曲げることがしばしば起こりうるのです。また、道徳的にも正しくなければなりません。
・「捨て」→強く決定的な拒否や否定の意味合いを持つ。
・「ずる賢い」→利己的な目的を達成するためには手段を選ばない不謹慎な狡猾さ。
・「真理」→神の真理、福音の真理、道徳的・倫理的基準としての真理など、さまざまな文脈で真理を表すのに用いられる。事実の正しさだけでなく、誠実さ、高潔さ、忠実さも意味する。アレテイアはしばしば虚偽や欺瞞と対比される。
・「良心」→その人の持つ教え。行動や判断の基準になる。神の教えに整合していることが幸い。
4:3 それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。
パウロたちは、神の言葉である福音を伝えるために、一切の躓きを置かないようにしました。それでも福音に覆いがかかっていて、人々が受け入れることができないとすれば、それは、その人たちは、滅びに行く人々であるからです。全ての人が救われるわけではありません。
なお、ここで「福音」と記されている語は、神の言葉の全体を含んでいます。当然、これを受け入れない人々は、滅びるのですが、文脈としては、コリントの信者のために語られる言葉のことです。そのことは、十三節と十四節の言葉から明らかです。
・「福音」→聖書の言葉の全てを含む。人が永遠の滅びから救われることに限定されない。すなわち、信者の霊的実を結ぶための言葉や、永遠の栄光に与ることも全て福音です。
4:4 彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。
そのように、神の言葉を受け入れない人々に関しては、この世の神であるサタンが信じない者たちの思いを盲目にしたのです。福音の光を輝かせないようにしたのです。この福音は、神のかたちであるキリストの栄光に関わるものです。キリストが神であられましたが、人となられて、神に従い、人としての完全な模範を示し、十字架の業により罪の代価となり、よみがえり、今も信者に働いて、信者をご自分のかたちに変えるために働いておられます。そして、栄光のうちに現れ、御国において栄光に輝かれます。信じる者も、その栄光に与ります。それらは、全てキリストの栄光として示されていることです。
・「暗くし」→盲目にする。盲目にさせる。
4:5 (それで)私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
それで、宣べ伝えていることは、自分自身ではなく、主なるイエス・キリストです。自分を現すことはないのです。自分たちは、コリントの信者に仕えるしもべであるのです。
この奉仕が、決して自分の誉のためではないことを示しました。それは、偽使徒たちがしていることと対比されています。
4:6 (なぜならば)「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
その理由を示し、神がその栄光を知る知識の輝きのために、私たちの心を照らしたのです。神の栄光は、キリストの御顔にあります。キリストを知ることで、神の栄光を知ることになります。
4:7 私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。
パウロに委ねられたものは、宝です。彼自身は、土の器です。土の器の意味は、次節以降に記されているように、苦しめられたり、迫害されたりする弱い存在であるということです。神様は、そのようなものに委ねましたが、それは、この宝がパウロたちから出たものではないことが明らかにされるためです。
例えば、迫害を受けていても、なお、神の言葉は広まりました。人の力で押さえつけることはできないのです。それによって、これが人から出たものではなく、計り知れない神の力によることが明らかになるのです。
4:8 私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。
4:9 迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
彼は、苦しめられても、窮することなく、途方に暮れても、行き詰まることがなく、迫害されても見捨てられることはありませんでした。倒されますが滅びませんでした。それは、神の計り知れない力が働いていたからです。
4:10 私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。
彼らは、いつもイエス様の死を肉体に帯びていました。肉体が死にそうな状況の中で、イエス様の命が現されました。例えば、彼が、喜んでいるならば、イエス様の命が現れるのです。ピリピで、鞭打たれて投獄されても、彼らの祈りと賛美は、囚人たちを恐れさせまして。彼らは逃げず、パウロたちの周りに集まったのです。イエス様の命が現されたのです。
・「身に」→肉体。
4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。
パウロたちのうちには、死が働きました。しかし、そこに現れた命は、コリントの人たちに働きかけています。彼らは、そこにイエス様の命を見て、パウロの伝えた言葉は、真理であるとわかったのです。
4:13 「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。
詩篇を引用しました。記者は、取り囲む人々に貶められていました。偽りを言う人々の中にいたのです。しかし、彼は、信じたので、確信を持って語りました。
パウロたちも、それと同じ信仰の霊を持っていました。信じているので語るのです。
詩篇
116:10 私は信じています。まことに私は語ります。私は大いに苦しんでいました。
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4:14 主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。
彼が信じていたことは、パウロたちとコリントの信者が、よみがえらされて一緒に御前に立つことです。パウロたちの奉仕を通して、語られた言葉によって、彼らが肉にはよらず、聖霊によって歩み、神の御前に立たせられて、報いとして栄光を受けるようになると信じたのです。ですから、語るのです。
よみがえらせることは、肉体のよみがえりを直接的に指しているわけではありません。肉にはよらず、御霊によって新しく生まれた者として歩ませることを指しています。神様が私たちをキリストのかたちに変える働きは、全能の力をもってなされています。その力は、キリストのよみがえりの時に働かされました。そして、今も、信者を肉にはよらず、御霊によって歩ませて御心を行う者に変えようとしています。
4:15 (なぜならば)すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。
神が、彼らを一緒に御前に立たせてくださる理由は、全てコリントの信者のためです。コリントの信者が教えられたところに従って御霊によって歩むならば、その恵みが実現するのです。彼らは、御霊によって歩むようになるのです。そうしたら、多くの人々がそのことのために感謝するのです。人々が、そのように変えられたのは、神の栄光の現れであることが明らかになり、神の栄光が現れるようになるからです。
信者が御霊によって歩むようになることは、信者に大いなる祝福をもたらしますが、全ては神の栄光のためなのです。
4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
パウロたちは、落胆しないと言いました。様々な困難がありますが、落胆しません。パウロが目に留めていたのは、内なる人です。コリントの人たちも、そこに目を留めるように促しています。内なる人は、日々新たにされています。神の働きにより、御霊によって、神の御心を行う者に変えられ、キリストが現されるようになっているのです。古い人のままでないのです。
4:17 私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。
パウロの苦難は、非常に大きいものでした。しかし、彼は、軽い苦難と言いました。彼が目を留めていたのは、永遠の栄光だからです。その栄光は、比べものにならないほどの重い栄光をもたらすからです。神様は、ご自分の栄光の豊かさを示すために、破格の栄光を与えられます。
4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
パウロが目を留めているものを示しました。それは、コリントの人たちが一緒に受ける栄光であることを既に示しましたが、コリントの信者もそこに目を止めるようにさせています。
それは、見えるものではなく、見えないものです。見えるものは、この世のものであり、終わるのです。一時的です。見えないものは、永遠に続きます。永遠の栄光こそ価値あるのです。